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東北地方、太平洋側の農民の惨事 [片麻痺でも旅がしたい]



 

奥羽(東北地方の太平洋側)の北部(岩手、青森)の農民は、日本の歴史上、本当に凄惨な暮らしを強いられた。


本来は、縄文時代の古墳が発見されるなど、漁業を中心に畑作、山の幸を加えれば、豊かな土地であったにもかかわらずだ。


全ての不幸の始まりは、武士による年貢取り立て。その土地に不向きな米作を強要されたことだ。


ここは太平洋側からの冷たい風である山背(やませ)が吹いて、南国産の米作など元来不向きな土地なのだ。

山背、冷害、凶作のパターンで農民は飢餓にあえいだ。


最近、Yu-Tuber歴史家が「農民は飢餓の年は、藩により備蓄米の放出があり幸せだった」と物知り顔で、平然と言うのを聞いてぶったまげた。


歴史上、そんなレベルでは全くないのだ。数年に一度は、ここそこで、餓死が当り前の様に起こるのだ。


それでも盛岡藩は年貢を強制し続けた。

 
 
 

江戸時代後期、ついに(現)田野畑村の農民たちは盛岡藩に対し二度の一揆を起こした。これが三閉伊(さんへい)一揆である。地域人口の20~30%、一万数千人が立ち上がった大規模な一揆である



加賀の一向一揆は浄土真宗という宗教をベースに集結していたが、ここはただただ年貢の苦しさからだ。


日本の歴史上、大名(武士)である支配者層の残酷さには、本当に身の毛がよだつ。それ程ほど恐ろしい。


実際に田野畑村を訪れてみても海岸沿いからすぐ山間部で、広い平野部は少ない。三閉伊(さんへい)一揆では、首謀者はお咎めなしということだった。つまり誰が考えても、それほど状況は悪かったのだ。



 農民が奴隷の様に扱われた歴史を鑑みると、現在の日本は非常に恵まれていると思う。支配する側とされる側、隣国の中国やロシア、北朝鮮では今もこんな残忍なことが行われているのだ。もしこんな国に侵略されれば同じことが起きるだろう。 

 
 ★この素晴らしい切り絵は、田野畑村立沼袋小学校の長根正樹元校長先生が作成され、田野畑村民俗資料館に寄贈されたものです。
 
 
それじゃ~また
 
 
 

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