白井貴子 名前のない愛でもいい [映画・音楽・美術]
脳卒中後の、困難な日常生活の中にある「明るさ」を見出したい。 [障害者として生きる]
脳卒中ブログを書いていると、コメントに「もう少し明るい話題はないの!?」「話題を変えて、明るくいきましょうよ!」とかのコメントが入ることがある。もっともな意見やなあと、反省させられる。
私も、パラリンピックの試合直後、選手の突き抜けたような笑顔に感動を覚えることは多い。ただしこれは、全力で競技にとりくんだ「達成感」が大きいと思う。
脳卒中ブログを書いている人は、割と後遺障害の軽い人が多い気がする。脳卒中の「闘病記」と称しながら、どこへ行っただのと普通の日常生活が書かれているだけで、闘病などとはとても言えない。
そんなブログには「活動的な私」や「復職を成し遂げた私」を励みにしてとばかりの鼻高な記述があるばかり。中途障害のむごさも、不安も絶望もたいして実感したとのない姿が浮かび上がっているだけだ。もちろん重い障害を負った同病者をおもんばかる視点など皆無だ。
脳卒中の重い後遺障害者の日常は生易しいものではない。風呂に入れるのに2時間、そこからベッドに寝かしつけるまでがさらに1時間と、介護する方も並大抵の苦労ではない。しかもそこに「失語」が加わるのだ。そんな同病者の生活を少しでも理解しているとはとても思えない。むしろ目をそらすために、ことさら「明るさ」を強調しているように思う。
私は、脳卒中の重度後遺障害者の介護をしている奥さんを二人知っている。二人とも明るくて本当に素晴らしい。スポーツの様な達成感は感じられないと思うが、夫の世話をする充実感がそうさせる面があるのだろうか!?
このように脳卒中後遺障害者の困難な日常生活の実相を伝えるなかで、この二人の奥さんの持つ「明るさ」を、「希望」として見い出し表現したいと常々思う。
『現状見ずして希望を語る「お花畑」』か、「困難な現状の中に希望を見出す」のか。重い後遺障害を抱える当事者や家族にとって本当の励ましとなる記事をこれからも考えていきたい。
それじゃ~また