下北半島の元会津藩士の過酷な暮らしを救ったのは意外にも明治政府による「廃藩置県」であった。




これにより藩はなくなり移動も自由になった。ある者は会津に戻り、またある者は東京に出た。




しかし引き続き下北に残り、ここで暮らしを立て直すべく奮闘した人々もいた。代表は、元会津藩士・旧斗南藩少参事であった広沢安任である。




広沢は、当地が古くから南部藩最大の馬の放牧場であったことに目をつけ、貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため政府に上申し、土地を無償で借り受け近代的な牧場を開いた。


 


地域の特性を生かして暮らす、そんな基本を怠って硬直した江戸幕府の政策失敗のツケは結局、弱い庶民に回ってくる。


 


全国一律に稲作に固守しなければ、地方の特徴を生かし多様な道が開けるのだ。 




しかし元会津藩士たちの聡明さが、ついに再起に繋げたのだ。


どんな時代でも生き抜くことが出来る三要素、知識と知恵と精神を幼い頃より身に着けること。このことの重要性を痛感する。会津藩にはそれがあったのだ。




ここは現在「斗南藩記念観光村」となっており、多くの地元民の憩いの場となっている。




訪れた日は連休の初日ということもあり、イベントの準備に多くの人が朝早くから準備で忙しそうであったが、天気も良く、過去の苦悩が報われた様な晴天の景色だった。











それじゃ~また


 




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 【同病の三本松のおじさん】の一言

30万石から3万石の痩せた下北へ、しかもそろばん、鍬も持ったことのない士族集団、ピンチをチャンスという華々しい転回ではなく、しぶとく、たくましく生抜くすべを身に着けていったのですね。このあたりが東北人の粘りが出るのですね。関西人はちょっと無理かな?


【返信】

そうですね。会津藩(斗南藩)の士族は学問と知恵と精神力の三拍子そろっていた様に思います。