「認知運動療法」日記の最終回には、こんなことをお書きになっています。


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喪失について




◆「まちがい探し」が治療か




元々フツー の大人としてフツーに何でもこなしたのが、ある日突然できねできなくなったという中途障害者なので、 他人様から失ったものを指摘されるのは心無く(他人に対して思いやりがなく)‥心痛いモノなのですが、 周囲で健康を謳歌している方は「まちがい探し」が治療であるというご認識が多々あります。 そしてそれは「自分はできる」という認識の裏返しの行為でもあったりします。




◆脳が欠けた人間には脳が欠けたナリの生き方がある




しかし立場が違うもの同士が それぞれの立場をリアルに共有することは不可能ですなので理解という偽善を求めるよりもまず「みんなそれぞれ」という違い!をわかってほしいのです。 脳が欠けた人間には脳が欠けたナリの生き方があるのです。


それをひとつの物差しで測ることは violence(バイオレンス=暴力)だったりします。 もっと繊細に、小さなヒトで、 小さな目で、小さなものを見ることができるようになって欲しいなあ、と思うことが多々でした。




◆経験していないコトをさも知ってるかのように語る医療者




基本的に「健康な方々」は医療者ですら大抵の疾患は未経験です。経験していないコトをさも知ってるかのように語っているだけです。 医療というエビデンス 様を拝みながら。


なので先を行くケイケンシャとして、もう少し大きな目で、そんな他者の立場を理解しながら障害と生きることも大切なのかもしれません。 いつかは誰もが経験することなんですから。




◆自己比較から脱却


まずは昔はできたの経験記憶に基づく自己比較から脱却しなければいけません。 疾患のない方全てのベクトルが成長に向かっているので、過去の自分と比較してそれは絶望ではなく希望であることが多いのでしょう。 輝く未来が見えるのですから。




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全く同感です。自分(健常者)基準で欠点を指摘するだけのセラピスト。その上、その欠点を修正するトレーニング方法を提案しようともしない。


こんなリハビリを受けておられる方が大半でないかと思います。私も全く同じだっただけに、本当に心が痛みます。が、嘆いていても仕方ありません。リハビリの主体は自分自身です。自分で考え、試行錯誤しやっていくしか道はありません。


 


私は、発病後8年の慢性期ですが、年数が経過すると、リハビリに関して、治療者より経験者のアドバイスの方が、はるかに役に立つことを痛感しています。


 


ただ認知的な療法は大きなヒトになると今回の藤田さんの日記を読んで思いました。


 


それじゃ~また