お~いで皆さん聞いとくれ~♪♬




僕は悲しい受験生ぇ~♪




砂を噛むように味気ないぃ~♪♬




僕の話を聞いとくれ!


 


 


 





そんな歌が大ヒットした。小学生の頃だ。フォークソングというジャンルを初めて知った。




歌っていたのは高石ともや、受験とはこんな大変なことなのかと、勉強嫌いの私はもう怖気ついた。




その高石ともやのバンド名がナターシャーセブンである。住んでいた名田庄村から名前が付けられたと後日知った。




今夜の車中泊は、名田庄村である。夜、道の駅でぽつんと一台だけだった。


 


 






 

この歌を聞いたおかげで高校時代の私は、スポーツ一辺倒、余暇は女の子のお尻をひたすら追いかける豊かな青春を過ごした(笑)


 


それが良かったか悪かったのか!?


 


 


 


 





私は団塊の世代から10年ほど遅れてきた世代であるが、お兄さん世代はあこがれ対象だった。




あさま山荘連合赤軍の事件も小学生の時だ。読売新聞の特集記事で「総括」の様子を熱心に読んだ。リーダー森恒夫はともかく、永田洋子はどうしても理解できなかった(女性というものを知らないガキだったのだ)




ほどなく岡林信康を知った。私は井上陽水や吉田拓郎のリスナー年代なのであるが、貧しい自営業者の子であったので、「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」の方が生活実感に近かった。 


 




 


後年、京都で岡林信康コンサートに行った時に、近くに田舎風のおじさん集団が座っていた。違和感あるなあと思っていると「今日は俺の村から来てくれてるんだ」と岡林さんが紹介した。災害時に村の橋をわざと壊す歌が大いに受けていた。




四当五落(4時間睡眠で合格、5時間も寝れば不合格)の厳しい受験戦争をようやく潜り抜けたと思えば。矛盾に満ちた社会が広がっている。義憤とマルクスレーニン主義とやらでいきなり革命だと学生運動に情熱注いだが、東大安田講堂であえなく粉砕、挫折。結局、山の中の暮らしを求めた。そんなイメージをなんとなく持った。




実際には、新聞TV等マスコミ大企業や教職を得てしていたことも知った。




何はともあれ、若狭に隣接する京都山間部の農村地帯は、兄ちゃん高石ともや、岡林信康の暮らした町である。


 


 


 


 


 



 




 

65を過ぎて、この歌がやたら胸にしみる。親しい人に、自分の無能を詫びる気持ちと、せめて別れまでの残りの時間を大切にしたい。そんな思いが強くなる。


 


考えてみれば、青春の始まりに「チュリップのアップリケ」で目覚め、初老に「きみに捧げるラブソング」で、眠ろうとしている。


 


お兄ちゃん世代の歌、フォークソングに私は大きな影響を受けた。この年になっても、今なお慰められている。


 








それじゃ~また