これが終わりの旅の 


始まりか


 星さえる下


 


 軽バン


 一台




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◆振り返れば、18年ごとに人生の大きな節目を迎えている。




18歳で家を出て、36歳で独立開業、54歳で脳卒中で倒れた。




次の18年後は72歳。何となくこれが人生の終わりかなとも感じている。 今現在は65歳であるから、残りあと7年である。




そうなるともうやれることは限られる。いったい最後に何をやりたいのか自分に問いかけてみたら、その答が「一人旅」だった。




しかし、脳卒中の重度の後遺症障害で、杖と装具でかろうじて歩く身である。




ほぼ毎日、自主リハビリを続けて10年。ここから大きくは改善しないだろう。もはや健常者のように歩くことは無理だと思う。




そうであれば今やるしかない。どこまでできるか全く分からないが、とにかく、今一歩でも足を踏み出さなければ、もう可能性は消えてしまうだろう。




もちろん私の車一人旅は、昔の歩き旅からすると、全く、お気軽旅である。


それでも心筋梗塞も併発し、医者からは、あと1回か2回の発作で、命はないと言われているので、多少の覚悟は持っている。








◆例えば、私が歌詠み人と敬愛する西行や芭蕉




晩年の旅に行き倒れも覚悟していたと思う。それ以上に旅に対する強い思いを持っていたのだと思う。





たとえば、芭蕉は次の様に詠んでいる。


 


 




旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ


 


 (※1)




 






野ざらしを心に風の沁む身かな


 


(※2)


 


 


 


 


(注)現代語訳は、かえって歌の印象や味わいを弱くしてしまう面があると思うが、以下参考までに。


 


 


※1 「初時雨の降る季節となった。私は今日、その時雨にぬれながら旅立ちをし、旅人と呼ばれる境涯に身を置こう」(学研全訳古語辞典)


 


※2 「旅の途中で行き倒れて野晒しの白骨となる覚悟で、いざ出立しようとすると、たださえ肌寒く物悲しい秋風が、いっそう深く心にしみるわが身だ」(新潮古典集成『芭蕉句』)


 




気になる歌をモゴモゴ反復していれば古人の歌心は何となく伝わる。現代語訳なるものと違っていればそれはそれで面白い。学校の授業ではないのだ


◆多少深刻な顔をして、




女房に旅の事話すと、大笑いされた。




「あんたは90才までは生きる。そんな家系や!」 





それじゃ~また