これが、別れかもしれない・・。 12年前、出張先で脳卒中で倒れ緊急搬送されたの で、今も旅立ちの時、ふっとそう感じます。 妻もちょっと不安そうな表情を浮かべる時があります。 でも怯えて縮こまるのは私たちらしくありません。 出発します。









【兵庫県生野銀山跡】









【兵庫県宍粟】









【福井県大野市 九頭竜ダム湖】










【福井県大野市 宝慶寺】中国で道元と一緒に修行していた中国僧「寂円」は、道元が日本に帰国した1年後、道元を慕い永平寺にやってきた。

 


その後道元の死ぬまで側で修行を続けた。道元の死後は永平寺を離れ、大野の山奥の小さな寺「宝慶寺」で、死ぬまで修行を続けた。


 




 






 


【青森県十和田湖】








【愛媛県宇和島市遊子水荷浦】




 


この段々畑に水桶を天秤棒で担いで荷上げして芋を作っていた。その肩にはみごとなこぶが、出来ている。




段々畑と漁業で食料を確保した上に、現在の子孫たちは真珠養殖、ハマチ・タイの養殖などで収入も増え豊かになってきた。


海岸沿いには、豪邸も建ってる。工業化で崩壊し核家族化した日本で、祖父母・父母・子夫婦・孫が一緒に暮らす生活が残っている。

 


しかし、おじいちゃんたちは今も段々畑の維持・補修の為に毎日坂を上っていく。














【福井県東尋坊】


中国で残留孤児となっていた縁者の男性が、突然、国の一時帰宅事業で戻ってくるという。親戚一同慌てふためいた。実母はすでに他家に嫁いでおり、会えないという(中国に子を残してきたことは秘密にされていた)


あまりに不憫だと叔父がそっと親子を引き会わせた。











ここは、高知県の山奥の仁淀川町ですが、こんな山の急斜面に家を建て、どう暮らしをたてていたのか、どう考えても分からない。米はとれそうにもない・・・。


帰宅して調べてみました。


ここらあたりは平家の落ち武者伝説のある村で、山の斜面を使った焼き畑により粟(あわ)や小豆(あずき)を育て、植林もしていた。



またお札にも使われる高級和紙の原料ミツマタの産地で、これにより現金収入を得ていたそうです。


それにしても、様々な暮らしの立て方があるものです。日本人の懸命に生きた様、何代わたる知恵の蓄積を感じます。












 【新東名高速SA】










【山梨県 富士樹海】

 










【青森県三沢市】戊辰戦争で敗れ、米作不毛の地青森県下北半島に移封された会津藩の士族とその家族。苛酷な暮らし、後に牧場を起こした。












【山梨県 西湖】









※「写真自由句」とは私が勝手に造ったのですが、イメージは写真に自由律俳句(じゆうりつはいく)をひっつけたものです。もっと簡単に言えば写真と言葉を、思いつくままくっつけたものです。