リハビリテーションという幻想の2回目です。今回も理学療養士にもかかわらず医療ではなく介護の現場にかかわってこられたお二人の介護の現場からの視点をご紹介したいと思います。 ■三好 本当の個別化とは、一人ひとりの障害や老化の程度に応じて、個別の人間関係を頭に入れて、その人の能力を活かしながら個性を引き出していくことです 。 | ||
■三好 リハビリをすることによって生きていく気力がなくなるようなやり方はいくらでもあります。 リハビリをすれば状態が良くなるからと言って、いかにやらせるかということばかりに目が向くと老人からだんだん表情がなくなっていきます。 ■高口 死がないものとして扱われているために、いつまでも右肩上がりの機能改善を求め続けることがリハビリだとすれば、老いのリハビリテーションには無理が先立ちます。 ■三好 リハビリには「障害受容過程論」があります。これも意識の世界の右肩上がりなんですね。 最初にショック期があって、最後には「価値観の転換」が起こると言われています。手足が麻痺して障害を負ったとしても人間としての価値は変わらないということです。 それまでの人間観を変えることが障害受容過程論だという言い方がされてきました。非常に教育的なんです。 なんで障害者だけがそんなに高尚な人間観を持たなければならないのかと言いたくなります。 でもその論理の中にリハビリの本質が染み込んでいるんですね。こうあるべきだという理念を障害者に押し付けているんです。 ■メガネサル(私) 我々は脳卒中になって「失敗者」とみなされ、障害者となって「子供扱い」される。 当然次に来るのは「教育してあげる」です。 我々自身の今後の生きやすさのためにも「ピンチをチャンスに変える」意味でも変容した方が良いと思いますが、医療側や健常者に上から目線で教えてもらう事でもない。 我々だけが「高尚な人間観」持つ必要もない。同病者の方で「ちょいワルおやじ」と称される方もおられますが、大いに結構です。私も人間性未熟な「吠え吠えおやじ」でこれからもまい進します。 ■高口 脳卒中になったのも生活習慣病だから自己責任だ。障害負って、それを受容できないのも自己責任だと言っているような気がします。 いつまでも、もっと努力しろと言われていて今ここにを認めてくれない。どうもリハビリの悪い面が出ているようですね。 【老健について】 身近でありながらなかなか取り上げられることのない介護老人保健施設(老健)お二人はばっさり切ります。 ■高口 老健はすごい働きをしましたね一つの施設で3か月から6か月ぐらいリハビリをつけても老人には大きな変化が見られない、ということを見事に立証してくれました。 ■三好 これは本当に皮肉な話ですね。病院と家との中間施設として作ったのに、結局は病院と特養の中間施設になったわけです。未だに特養の入所待ちをしている人がほとんどです。 ■高口 私たちが現場で気づいたのはどんな重度の人でも家に帰る人は帰る。どんなに深い認知症があっても帰る人は帰るということです。 逆に言えばどんなに軽い人でも帰れない人は帰れない。そうすると重要なのは家族に介護への理解や介護力があるかどうかが大きな要素だと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上いかがでしたか、我々片麻痺障害者自身もリハビリを医療的リハビリ(身体機能向上リハビリ)と考える人が多い。若く障害の軽い方は特にそうです。しかし誰しも老いて肉体は衰える、そこで生活リハビリに重点を移す視点も必要です。 ◆ただ実際は、比較的若い方では、普段は自主トレ・生活リハビリで、何年に一度かは、病院で医療的リハビリも受けてみる。こんな方も結構おられます。 お二人のような専門家の意見は意見として参考にし、実際は、こんな風に柔軟に取り組めばいいのです。医療的リハビリか生活リハビリか二者択一する必要はありません。したたかに行きましょう。 それじゃーまた。 | ||
- お勧め本
【三本松のおじさんの一言】
まだ治療現場に教育勅語的なこうあらねばならぬ的な理念が残っているとしたら、ほっといてくれですよね。あくまで個人生活の維持に重点を置くリハビリを施設全員が志向する体制を作る。そんなに難しくはないのですが、なかなかお目にかかりません。
【返信】
リハビリ・治療側は、教育的な反面、床からの立ち上がりなど生活リハビリを軽視する。年が若いにかかわらず、高齢の患者を見下す。
教育されねばならないのはどっちだと言いたくなります。でも彼らは先生と呼ばれている。