脳内出血による左片麻痺男のブログ。前だけでなく横にも後ろにも歩くリハビリの日々
▼百姓バッパ吉野せいは、夫の死後その友人に小説を書くことを勧められ、鍬(クワ)に親しんだ手にペンを持った。70才になっていた。
勧めたのは近郷の詩人、草野心平である。その心平をして、「これは単なる農民小説でも記録でもない。恐ろしい文学である」と言わしめた。
せいは夫で詩人である吉野義也(三野混沌)とともに、阿武隈山脈の南はしの藪野を開拓して50年作物を作り続けてきた。
▼「土に書いた言葉」とは言いえて妙である。ただし手はごつごつした農婦の手である。
今回の東北旅で、その菊竹山の開墾地をどうしても見ておきたかった。
しかし唖然とした。
そこは(写真上)もう住宅が立ち並び、狭い畑が僅かに存在しているだけの場所である。
吉野せいが開拓し奮闘した跡地は見られない。道路の端にわずかに竹やぶの跡が残っていた。
落胆し、草野心平資料館に向かった。
【写真】昭和45年4月11日他界した詩人三野混沌(吉野義也)を常に尊敬して止まなかった草野心平。昭和47年4月のみぞれ降る日、混沌を忍ぶ詩碑除幕式に祝辞を述べてくれた草野心平(左)。吉野せい(中央)。
(昭和47年4月 1972年)大塚一二氏提供
資料館では思わぬことに、期間限定でミニ企画展示コーナーが設置されており、そこに吉野せい生原稿が展示さていた。
土を引っ掻いたような筆圧の強い文字を予想していたのだが、女性的というのではないが意外と柔らかいのだ。
彼女は網元の娘として生まれ、しばらく代用教員をしていたのであるが、やはり繊細な知性を感じさせる文字である。
この生原稿を見れたことは、吉野せいを敬愛する私には大きな喜びだった。
洟をたらした神 (中公文庫)
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