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最後の瞽女、小林ハルさん永眠の地 [片麻痺でも旅がしたい]


東北旅の終わりに、最後の瞽女、小林ハルさんの永眠の地を訪ねた。


小林ハルさんについて以前書いた記事はこちらである。

 

障害を生きる

最後の瞽女小林ハルさんと鉛筆画家木下晋さんの出会い 


それにしても胎内(たいない)と呼ばれる町の観音様のすぐそばとは。

 


 

ようやく母の胎内に戻り、観音様の側で安らかに小林ハルさんは眠っている訳である。


とてつもなく過酷な人生であったが、最後はこの地で30年の穏やかな暮らしがあったのだ・・。本当に良かった。


105才で永眠されるまでの29年間を過ごされた老人ホーム「胎内やすらぎの家」は視覚障害者の方への専門的な支援行う老人ホームであり、この施設内にハルさんのお墓もある。


新潟の長岡や高田の瞽女なども多く入居しており、施設のイベントでは、仲間たちと一緒に演奏し歌った。また弟子に教えたりもしていたそうである。


施設内へ立ち入ることはできなかったが、近くで車を止め手を合わせた。 


障害を持つ事は、直接的な富の生産性を持たない。故に日本における身分制度では、貴賤の区分の賤と見なされた。


しかし、日本の文化を支えたのは、間違いなく賤(庶民)の人たちである。河原者と言われた芸人、浮世絵画家、仏像彫刻師、庭師、刀鍛冶など全てそうである。


何れも苛酷な修行の果て、その道を極めたのだ。現在、日本が世界から称賛される文化は、支配者層の宮廷文化でなく、何れも庶民の中から生まれ成熟したのだ。私は、これを本当に誇りに思う。


 
それじゃ~また

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 【同病の三本松のおじさん】の一言
泣きの16、短い指に、息を吹きかけ越えてきた。
三味が折れたら両手でたたけ、撥がなければくしで引け。
鍋のこげ飯、袂で隠し。
極貧の環境と失明のハンデを背負いつつ、けなげにたくましく生きる人達にそっと心を寄せ続けたい。

【返信】
お~こんなぴったりの曲があったのですね。確か、北島三郎の「風雪ながれ旅」でしたっけ。
 
 
 
 
 

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土門拳記念館の困難 [小さな美術館、博物館巡り]


 

私が山形県で楽しみにしていたのは酒田市の「土門拳記念館」を訪れることだった。


原発投下後の悲惨な人々の写真、九州の炭鉱の子供たちの写真、仏像の写真など、私は土門拳の写真のファンなのである。




ところが、著名な建築家が設計したと言うこの記念館、身体障害者には非常に厳しかった。




障害者用の駐車場があるのだが、これが遠い。一般の駐車場の方が入り口に近いのだ。


それから私は歩行器を押して入り口に向かったが、これが大きな鉄の扉で、片手の力ではどうにも開かない。


幸い、外を掃除をされていた職員の方がおられ、入り口を開けくださった。


帰りもこの扉を開けようと、苦戦していると、見かねた受付の職員の方が、わざわざ出てきてくれて開けてくれた。身体障害者だけでなく高齢者や女性も開けるのは厳しいと思う。


館内の売店にも階段を使わないと行けない。




設計の主題は、「この美しい自然環境と建物をいかにして協調させるかを最も重視し、その協和する響きの中に、土門拳の芸術空間をより高純度に熟成すること」だそうだ。


土門拳は2回の脳卒中により車椅子生活であった。その困難の中で撮影を続けた。


土門は、この土門拳記念館に、自力で入ることはできなかっただろう。


写真を通し、彼の弱い者への温かい視線を知っているだけに、腹立たしかった。


建物のデザイン重視で、入場者の事を考えていない美術館や博物館。これ全国に結構あるのだ。


私は美術館や博物館には、建物でなく、展示品を楽しみにに行く。


建物に求めるのは、デザイン性でなく、アクセスが楽で、展示品が見やすい機能性である。


それじゃ~また
 
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 【同病の三本松のおじさん】の一言
土門拳さんの写真私も大好きです。レンズを通して彼の人間に対する優しいまなざしが感じられます。
又私はむしろ物の購入にあたって、品質、機能と同等ぐらいデザイン性を重視しますが、ご指摘の障害者にやさしくない建物はどれだけデザインにおいてすばらしいものであっても、利用する構造物として全く失格です。
設計者の勝手なエゴだけで設計図を通しての優しいまなざしがないようです。土門さんを見習えです。そしてこのような地域の風景に溶け込んでこない、奇をてらう構造物を作るのを容認する人たちの文化の低さを感じます。
【返信】
自らの作品重視で、入館者の事など全く頭にない建築家。行政がなぜこのデザインを止められなかったのか、本当に怒りを感じます。
 
 

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「斗南藩記念観光村」会津藩士の再起 [小さな美術館、博物館巡り]


下北半島の元会津藩士の過酷な暮らしを救ったのは意外にも明治政府による「廃藩置県」であった。


これにより藩はなくなり移動も自由になった。ある者は会津に戻り、またある者は東京に出た。


しかし引き続き下北に残り、ここで暮らしを立て直すべく奮闘した人々もいた。代表は、元会津藩士・旧斗南藩少参事であった広沢安任である。


広沢は、当地が古くから南部藩最大の馬の放牧場であったことに目をつけ、貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため政府に上申し、土地を無償で借り受け近代的な牧場を開いた。

 

地域の特性を生かして暮らす、そんな基本を怠って硬直した江戸幕府の政策失敗のツケは結局、弱い庶民に回ってくる。

 

全国一律に稲作に固守しなければ、地方の特徴を生かし多様な道が開けるのだ。 


しかし元会津藩士たちの聡明さが、ついに再起に繋げたのだ。

どんな時代でも生き抜くことが出来る三要素、知識と知恵と精神を幼い頃より身に着けること。このことの重要性を痛感する。会津藩にはそれがあったのだ。


ここは現在「斗南藩記念観光村」となっており、多くの地元民の憩いの場となっている。


訪れた日は連休の初日ということもあり、イベントの準備に多くの人が朝早くから準備で忙しそうであったが、天気も良く、過去の苦悩が報われた様な晴天の景色だった。




それじゃ~また
 
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 【同病の三本松のおじさん】の一言
30万石から3万石の痩せた下北へ、しかもそろばん、鍬も持ったことのない士族集団、ピンチをチャンスという華々しい転回ではなく、しぶとく、たくましく生抜くすべを身に着けていったのですね。このあたりが東北人の粘りが出るのですね。関西人はちょっと無理かな?
【返信】
そうですね。会津藩(斗南藩)の士族は学問と知恵と精神力の三拍子そろっていた様に思います。
 
 
 
 

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豊かな会津盆地から下北半島へ [片麻痺でも旅がしたい]



会津地方、なんて落ち着いたいい町々であろうか。


高速道から初めて眺めた会津の町。周りを山々に囲まれた盆地。その中に豊かな田園地帯が広がっている。猪苗代湖の豊富な水系がもたらすのだろう。

そして山々の中で一段と、神々しくそびえ立つ磐梯山。

 

こんな町では、ひとは、日々落ち着た心持で暮らせるように思う。


だから古く会津藩の時代から、教育に熱心で、その成果も上がっていたのだろうと想像させる。



こんな豊かな土地から戊辰戦争に敗北したことにより、米の取れない極寒の青森県下北半島に藩ごと移封させられたのである。斗南藩である。


大きな落差のある暮らしに、人々の嘆きはどれほど大きかったであろうか?


それを確かめるべくここ会津若松から、青森県下北半島に向かおうと思う 。

 
 
それじゃ~また
 
 
 
 

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東北地方、太平洋側の農民の惨事 [小さな美術館、博物館巡り]



 

奥羽(東北地方の太平洋側)の北部(岩手、青森)の農民は、日本の歴史上、本当に凄惨な暮らしを強いられた。


本来は、縄文時代の古墳が発見されるなど、漁業を中心に畑作、山の幸を加えれば、豊かな土地であったにもかかわらずだ。


全ての不幸の始まりは、武士による年貢取り立て。その土地に不向きな米作を強要されたことだ。


ここは太平洋側からの冷たい風である山背(やませ)が吹いて、南国産の米作など元来不向きな土地なのだ。

山背、冷害、凶作のパターンで農民は飢餓にあえいだ。


最近、Yu-Tuber歴史家が「農民は飢餓の年は、藩により備蓄米の放出があり幸せだった」と物知り顔で、平然と言うのを聞いてぶったまげた。


歴史上、そんなレベルでは全くないのだ。数年に一度は、ここそこで、餓死が当り前の様に起こるのだ。


それでも盛岡藩は年貢を強制し続けた。

 
 
 

江戸時代後期、ついに(現)田野畑村の農民たちは盛岡藩に対し二度の一揆を起こした。これが三閉伊(さんへい)一揆である。地域人口の20~30%、一万数千人が立ち上がった大規模な一揆である



加賀の一向一揆は浄土真宗という宗教をベースに集結していたが、ここはただただ年貢の苦しさからだ。


日本の歴史上、大名(武士)である支配者層の残酷さには、本当に身の毛がよだつ。それ程ほど恐ろしい。


実際に田野畑村を訪れてみても海岸沿いからすぐ山間部で、広い平野部は少ない。三閉伊(さんへい)一揆では、首謀者はお咎めなしということだった。つまり誰が考えても、それほど状況は悪かったのだ。



 農民が奴隷の様に扱われた歴史を鑑みると、現在の日本は非常に恵まれていると思う。支配する側とされる側、隣国の中国やロシア、北朝鮮では今もこんな残忍なことが行われているのだ。もしこんな国に侵略されれば同じことが起きるだろう。 

 
 ★この素晴らしい切り絵は、田野畑村立沼袋小学校の長根正樹元校長先生が作成され、田野畑村民俗資料館に寄贈されたものです。
 
 
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 【同病の三本松のおじさんの一言】
学生時代に数限りなく歌ったインターナショナルの歌を今でもそらんじて歌えます。((起て飢えるたるものよ、今ぞ日は近し,さめよ我が同胞、暁は来ぬと)この世に貧困と不平等、戦争がある限り歌い続けられることでしょう。

【返信】
10年遅れた世代ですが、実は聞いたことも歌ったこともありません。我らは岡林信康の「友よ」でした
この間、時代が大きく変わったのですね。熱狂は冷え、連帯意識も高揚感もない。ただ社会矛盾に対する怒りは大いにありました。労働者よりもっと悲惨な人間がいる。人は環境が変われば、あっという間に豹変する。それらが思考の原点でした。

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