Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...
SSブログ

「世間が狭い」をどう克服するのか 2.時間的な広がり  [障害者として生きる]


 

空間を横軸とすると、時間は縦軸。


田舎者の話から多少飛躍している感もあるが、生きる知恵として視野の広さを考えてみたい。


(1)歴史的視点



時間的な広がりとはつまり時間軸を遡って過去から学習し、今の状況を判断し、将来を予測する力である。


長期的には先人の知恵や歴史の法則を学んでいる事、短期的にはライフサイクルに対する認識だと思う。


これはズバリ、教養がものをいう。


私には、残念ながらこれがなかった。周りに比べ高学歴でない事が、多少コンプレックスだったが、そうでなく、そもそも基本的な教養がなかった。


通り一辺倒の歴史は、誰でも学校で習う。だがそれは単なる知識だ。歴史学習を暗記訓練にすり替えてきたのが戦後の学校教育だ。


庶民の悲惨な歴史と統治法、宗教、思想などおざなりに教えられるだけだ。

 

史跡足利学校では、「論語」をみんなで大きな声を出して読む(素読)体験プログラムを行っている。

 
 

かって江戸時代の中後期は、寺子屋で、幼き頃から「子曰わく・・」と論語の音読(素読)していた。幼い時に自然に、中国の賢人の知恵と道徳を脳に焼き付けていたのだ。



そういった中で、優秀な人材により明治維新を成し遂げたのだと思う。

 

◆明治時代の人間と、現在の人間どちらが賢かったか

 

そう問われれば、私は明治の人と答える。もちろん知識や情報量は圧倒的に現代人が上回る。しかし素養(そよう=平素の修養によって身につけた教養や技術)は、明治の人の方が上だ。感性や自分の頭で考える力が違う。

 

 


敗戦による自虐史観で見えなくなっているが、政治家でも、伊藤博文、大隈重信、高橋是清、吉田茂など現代の政治家とは、存在感がまるで違う。

 

 

明治生まれの名もない炭焼職人だった祖父でさえ、技術を追求し、堂々としていた。村の世話役でもあったので、近所の人がいろんな相談を持ち込んできたが、常に落ち着いて時に諭すように答えていた。これが大人の男だと今も敬愛している。

 

 

それじゃ~続きはまた

 
【同病の三本松のおじさん】の一言


教養とは難しいです。又世の中いわゆる教養人と言われるような人たちは、私ははいて捨てるほどいるような感じがしますが、果たして我が身を顧みず人々にほんの少しでも生きる希望と未来への希望の光を与える新の教養人はと言われれば・・・・・


【返信】

知識人と思われ,マスコミ、ネットに登場する大学教授、評論家等に教養を感じるかといえば、ほんの一握りの人たち以外はありません。多くの一般人も知っていることを賢いことだと勘違いしている様に思います。平均寿命は延びていますが、年寄りが賢くもなっていない。何故なんでしょう・・・。

nice!(8)  コメント(2) 
共通テーマ:健康

nice! 8

コメント 2

ふるたによしひさ

激しく同意します。
明治の人のほうが日本の共同体意識が強かったのではと思います。
「自分がやらねば」という、背中に家族やムラや国家を背負っていたのでしょう。そういう気概があったのでしょうね。
by ふるたによしひさ (2021-10-24 11:17) 

meganesaru707

おっしゃる通りです、我々現代人は個に解体されてしまった。共同体が持っていた良さを失くしているのです。

病気で、不本意ながら田舎に戻って、小さな一族の長の立場に置かれると、甥っ子姪っ子の家族にも目配せが必要になってきました。例えば、経済的な理由から進学できない子が出ないように、一族全体で経済的不安を低下させる方法も考えねばならない。個々の自助努力が基本ですが、安心して努力できるように共同体としての下支えは必要です。
by meganesaru707 (2021-10-24 11:57) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント