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小さな美術館、博物館巡り ブログトップ
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100年続いた「百姓の持ちたる国」が、ついに滅びた(白山市鳥越) [小さな美術館、博物館巡り]


越前加賀は、日本の歴史上、類まれな地域である。それは庶民による自治共和国が100年も続いた歴史を持つからである。


この旅で、白山市鳥越の一向一揆歴史館を訪れることを楽しみにしていた。


この地は「百姓の持ちたる自治共和国」が大抵抗の末に、最後に滅んだ所である(1582年)


滅ぼしたのは織田信長である。


信長との戦いは、石山本願寺(後に大阪城)、金沢御堂(後の金沢城)と二つの大拠点が陥落し、大勢は決していたが、鳥越は、なお最後まで徹底抗戦した地である。陥落後は、周辺の集落に人が全くいなくなるほど残虐な殺戮(さつりく)を受けた。浄土宗門徒は武士の世を揺るがす危険集団とみなされたのだ。



その100年前、本願寺門徒による一向一揆で守護大名を打ち破って百姓の持ちたる国が誕生した。百姓による自治共和国である。


百姓とは、中心となった農民(定住民)だけでなく漁民、行商や運搬に携わる人々、山で暮らす狩猟民、木地師などの非定住民も含まれていた。つまり被支配者層の庶民である。

 

「一切衆生・平等往生」という平等思想が国の基盤になっており、信者同士は身分に関係なく「御同朋(おんどうほう)」で、少人数の講(こう)を通じ強い連帯意識を持っていた。

 

これは従来の貴族のための宗教とは大いに異なっていた。

 

一向一揆の際に掲げられた六字名号の旗

 

【真宗大谷派 普照山 乗円寺所蔵】

 

旗印は、全ての人は、職業、身分、性別に関係なく「南無阿弥陀仏」を唱えることで極楽往生するという親鸞の教えである。


 

だが、豊かな米作地帯でもあったこの地は、権力者に常に狙われ、防衛の為の戦いが続いた。


資料館で、戦火で真っ黒に焦げた当時の兵糧米を見た時は、胸にこみ上げるものがあった。

 
 
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【同病の三本松のおじさんの一言】
古代の城郭のような写真は、白山市鳥越にある一向宗最後の拠点となった城郭ですか?。いいですね~行ってみたくなりました。

【返信】
そうです。ここで、織田信長の命を受けた柴田勝家に、例のごとく徹頭徹尾情け容赦なく壊滅させられます。信長と秀吉、英雄と称賛されますが、戦国大名の中でも特に異様な人間性の二人を、とても称える気にはなれません。

 

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円谷幸吉記念館(福島県須賀川市) [小さな美術館、博物館巡り]


私が小学生の頃、テレビが爆発的に普及しました。東京オリンピックが開かれるからです。


期待に胸膨らませた東京オリンピック陸上競技では、惨敗つづきでシュンとなりました。


ただ一人、最終種目のマラソンで、円谷選手がメダルを取ったのです。歓喜しました。


円谷選手は首を傾け本当に苦しそうに走るのです。アベベに次いで、競技場に戻ってきた円谷選手は、そこで一人の白人選手に抜かれましたが、何とか銅メダルを獲得しました。



私もこれに大いに刺激を受けて、「円谷選手のようにオリンピックに出る」と人生初の目標を立て、毎朝走るようになりました。円谷選手は私のヒーローでした。




何年か後、あの円谷選手が自殺したという衝撃のニュースが飛び込んできました。

 

「なぜ?」という疑問は脹らみましたが、それでも毎朝一人で走ることは止めませんでした。


家族に宛てた遺書を知ったのはそれから10年も後です。

 

父上様 母上様 とろろ美味しゅうございました

 

敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました

 

勝美兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味しゅうございました 

 

~~

 

父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません

 

何卒お許し下さい

 

気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません

 

幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました


何者かに成るということは、こんなにも苦しいかと涙が止まりませんでした。

 

それにしても、今読み返しても、この純真さには、心が痛みます。

 
 

40年後、ようやく訪問した「円谷幸吉記念館」。何と数日後に「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」が開催予定で、のぼりが旗めいていました。

 

地元(福島県須賀川市)とはいえ、円谷さん冠マラソン大会が今も続いているなんて、本当にうれしいことです。

 

また、この町の「円谷ランナーズ」からは、2020年東京オリンピック一万m代表の相澤晃選手も輩出しました。生きていれば、円谷さんどんなに喜んだことでしょう。

 
 
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【同病の三本松のおじさんの一言】
今の時代の男性が、持ち合わせていないような古武士然とした風貌、グランド内でもう少しのところでスッと抜かれた悔しいオリンピック、そしてしばらくたってからの悲しい自殺、何だか愛おしい気持ちにさせる選手でした。
【返信】
父親の「次は金メダル取らせます」発言。親を敬愛し、生真面目な円谷選手はスランプに陥り本当につらかったと思います。

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【草野心平記念文学館】福島県いわき市 [小さな美術館、博物館巡り]



▼共に東北出身で同世代を生きた偉大な二人の詩人と言えば、草野心平と宮沢賢治です。

 

私は教科書で草野心平の「冬眠」という詩(上記)を読んで?(見て)衝撃を受けました。それ以来草野心平のファンです。


▼もちろん宮沢賢治の詩にも感動しました。特に高校の女性教師が読んでくれた「永訣の朝」は衝撃でした。感動のあまり呆然自失の私に、教師がにっこりと微笑んでくれました。



ですが、宮沢賢治というのは、育ちがいいという感がどうしても拭えないのです。百姓仕事をしたこともないのに、理想に燃えて農学校の教師になる等、少々青っぽさを感じるのです。



草野心平は、家庭を持ち生活に貧窮しながらも創作を続けた。その骨っぽさが好きなのです。

 

▼ちなみに吉野せいの夫で詩人の三野混沌は、詩作に夢中なあまり農作業がおろそかになり、また農地解放運動にのめり込んで、百姓仕事、子育ては全てせいに任せっぱなしだったそうです。私はこんな人物は、はっきり言って嫌いです。

 


▼ところで草野心平は宮沢賢治との間で手紙のやり取りがあり、生活に貧窮した草野心平は農学校の教師をしているのだからと、宮沢賢治に米を無心したそうです(笑)


とにかく家族との生活の為、貸本屋、居酒屋やセールスマン何でも一生懸命にやった。


大陸風の男っぽい、いいい表情をしています。ちなみに中国の広東嶺南大学で学んでいます。

 



▼それにしても草野心平記念文学館の立派な建物と展示。心平さん草葉の陰でビックリしてるだろうな。

 
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【同病の三本松のおじさんから一言】
詩を読んで呆然自失、青っぽさより骨っぽさが好きとは、詩に関して不勉強な私はメガネザルさんの生き方そのもののような気がします。

返信
ありがとうございます。口の悪い同級生からは、高校生の時から何も変わっとらん(進歩がない)と言われてます。

 
 

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「土に書いた言葉」百姓バッパ作家 吉野せい [小さな美術館、博物館巡り]


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▼百姓バッパ吉野せいは、夫の死後その友人に小説を書くことを勧められ、鍬(クワ)に親しんだ手にペンを持った。70才になっていた。


勧めたのは近郷の詩人、草野心平である。その心平をして、「これは単なる農民小説でも記録でもない。恐ろしい文学である」と言わしめた。



せいは夫で詩人である吉野義也(三野混沌)とともに、阿武隈山脈の南はしの藪野を開拓して50年作物を作り続けてきた。


 

▼「土に書いた言葉」とは言いえて妙である。ただし手はごつごつした農婦の手である。

 


今回の東北旅で、その菊竹山の開墾地をどうしても見ておきたかった。



しかし唖然とした。


そこは(写真上)もう住宅が立ち並び、狭い畑が僅かに存在しているだけの場所である。


吉野せいが開拓し奮闘した跡地は見られない。道路の端にわずかに竹やぶの跡が残っていた。



落胆し、草野心平資料館に向かった。

【写真】昭和45年4月11日他界した詩人三野混沌(吉野義也)を常に尊敬して止まなかった草野心平。昭和47年4月のみぞれ降る日、混沌を忍ぶ詩碑除幕式に祝辞を述べてくれた草野心平(左)。吉野せい(中央)。


(昭和47年4月 1972年)大塚一二氏提供

 

資料館では思わぬことに、期間限定でミニ企画展示コーナーが設置されており、そこに吉野せい生原稿が展示さていた。


土を引っ掻いたような筆圧の強い文字を予想していたのだが、女性的というのではないが意外と柔らかいのだ。


彼女は網元の娘として生まれ、しばらく代用教員をしていたのであるが、やはり繊細な知性を感じさせる文字である。


この生原稿を見れたことは、吉野せいを敬愛する私には大きな喜びだった。

 
洟をたらした神 (中公文庫)

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  • 作者: 吉野 せい
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2012/11/22
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 【同病の知人 三本松おじさん】


ばっぱの意味が解らず、パソコンで調べるほど吉野せいさんにも無知な私ですが、土という一番身近な自然を相手に戦ってこられた生活者の装飾のない言葉は甘ちょろい、安易な生活を送る私の横面を張る力強い言葉なんでしょうね。

【返信】
仰せの通りです。せいは、詩人である夫混沌が農作業の手を止めて、紙に言葉書きつけるのを憎々しげにながめていたと思います。逆に混沌はせいを鬼と呼びました。このギャップは混沌が生きている間は埋められなかったと思います。

せいと混沌、どちらに共感するかと問われれば、私はせいです。言葉ばかりとらわれている歌人は苦手です。
 

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【香月泰男美術館】山口県長門市 [小さな美術館、博物館巡り]


 


山口県の「香月泰男美術館」まで足を伸ばそう。


島根県大田市の三瓶山の西駐車場に着いたのは早朝だったので、時間の余裕ができた。



シベリア抑留のの絵画、玩具の人形。前々から香月泰男さんのファンだったので、その作品を直接見る事は念願だった。

 

 

 


4時間程かかって、山口県長門市の丘の上にある美術館の下に着いた。

そこからは急な坂道で、おまけに車止めがある。


しかし「車両乗り入れの必要な方は右側のインターホンをご利用ください 」との看板がある。「助かった!」とインターホンを押した。


しばらく待っていると女性が坂道を降りてきた。受付の方というよりも学芸員の雰囲気だ。


「今日は造園屋さんが伐採工事しており、途中にトラックが止まっているのでここから入るのは無理です」とつれない言葉。

 


「他に登れるような所はないですか」と食い下がった 


「ちょっと先にもう一箇所入るところがあります」

「目印がありますか」

「看板が出ています」

「どのような看板ですか」

「小さな看板です」

 質問をしてもめんどくさそうに、短い返事だけ。


仕方なくその小さな看板を目指した。宗教の家らしい案内板だった。

それで、ためらったのか。


しかしそこも急坂で、車が入るにはもうぎりぎりの幅しかない。

注意して何とか上がったが、民家が一軒あるだけで、その先の道はない。


私の間違いかと、30分余り周辺をウロウロした。そのうちさっきの女性が顔見せてくれないかと少々期待したのだが・・。



多くの来館者の一人にすぎない障害者のために時間を割くのはおそらく迷惑だったのだろう(当日は広い駐車場には車2台だったが・・・)

 

何より、香月泰男の作品を見てもらいたい、という熱意が全く感じられないのだ。

 


地方の美術館では建築等のデザイン性を重視し、来館者のことを考えてないところは多い。地域活性化のための観光の目玉にしようというのは分からないでもないが。


この美術館も丘の下に大きな駐車場があるが、そこから高齢者や小さな子供がこの坂を上るのは少々しんどいだろう。


人も施設も、人に優しい香月 泰男の作品世界に反していると思う。

 

 

 
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【同病の三本松のおじさんの一言】
以前美術館の建物で、機能性より吹っ飛んだような奇抜なデザインに違和感を持ったと書かれましたが、考えまするに、芸術というものは生活の身近にあってふっと安らぎを感じるものと定義すれば、かたや崇高なもので、身構えて鑑賞しないとお前たちにはわからんぞという傲慢さを感じさせてしまうところがありそうだ。
【返信】
この学芸員とおぼしき人、まさにそんな傲慢さ感じる人でした。仰せの様に、芸術は特異な才能のアピールの場ではなく、あくまで普通の人が共感できるものであってほしいと思います。香月さんの作品はそんな作品なだけに残念でした。

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