たそがれマイ・ラブ 大橋純子 [映画・音楽・美術]
絶望老人(5)年を重ねただけでは「人生の達人」になれない [障害者として生きる]
今回も「絶望老人」神郷由紀著からピックアップさせていただきます。
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◆確かにお金があれば幸せになれる選択肢と可能性は増すだろう。
だが裕福でさえあれば誰もが必ず幸せになれるとは限らない。 逆にお金がなければ全員が不幸になるとも決めつけられない。
◆ 万人にとって人生の長さが幸せの量と必ずしも一致しないように、経済的豊かさもまた幸せの量や質とかぐし必ずしも正比例に関係にはないからだ。
◆幸せを希求して上を見ればきりがなく、我欲には 際限がない。 必要なのは足るを知る感覚を踏まえて、生きる知恵と生活力を備えること。
◆たくさんのお金がなければ生きられない。幸せを感じられない生活と価値観に固執せず限られた収入の中で生きられる知恵や工夫、方法を身につけ 、その中で自身が楽しめる人生の目的と手段を得ることだ。
◆言い換えれば長い人生経験の中で、どのような状況でも自分を「活かして」生かす力を養って来なかった人、 生きるセンスを培えず(つちかえず)にいた人ほど、長く生き延びた老いの日々を、苦心して送ることになる。
◆これまでの実りを得られる人もいれば、しっぺ返しを食らう高齢者もいる。 貧富の差に関わらず単に歳を重ねただけで誰もが「人生の達人」になれるわけではない。
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当たり前ですよね。楽に生きてきたら、年齢重ねるだけでは、何の蓄積ももたらさない。むしろ悪い贅肉が付くだけ。人生70年の時代はそれでもよかったかもしれませんが、定年後20年以上生きなければならない人生90年の時代では、どこかでつけ払わされます。逆に苦労したことが、大きな喜びをもたらすこともあります。
第二の人生も意識して第一の人生を送ることが大切なようです。威張らない、やりこめない(議論で勝たない)、汗をかく、鈍(どん)な人の方が第二の人生では上手くいきそうです。
それじゃ~また
遠くで汽笛を聞きながら アリス [映画・音楽・美術]
俺を見捨てた人を
恨んで生きるより
幼い心に秘めた
むなしい涙の捨て場所を
さがしてみたい
自分の言葉に嘘はつくまい
「障がい年齢33歳。もうちょっと生かしていただいて」yahooニュース2019年1月6日 [障害者として生きる]
ーーーyahooニュース2019年1月6日ーーーーーーーーーーーー
「障がい年齢33歳。もうちょっと生かしていただいて」
会社員 佐藤隆信さん(56) 大分県別府市
佐藤隆信さん
大分県別府市の社会福祉法人「太陽の家」は“保護より機会を”を掲げ、障がい者の働く場づくりに寄与してきた。その一つ、1983年設立の「三菱商事太陽」は同法人と三菱商事の共同出資で、社員112人のうち70人が障がい者。大分県出身の佐藤隆信さんは1989(平成元)年に入社した。
「地元の高校出て、自衛隊に入りました。航空機体整備員を希望したのに、適職診断の結果は通信員。基地間の交信業務の道に入りました。最初は戸惑いもあったんですけど、そこでコンピューターと出合うわけなんです。ちょうど、配属が(東京の)市ケ谷基地だったんで、周りに夜学とかがいっぱいあって。夜勤のとき以外は勉強してましたね」
1986年5月23日、転落事故で下半身の自由を失った。
「あまり思い出したくないところなんです。休日に友人宅を訪問して、手伝いでベランダかなんかにあるやつを取ろうと身を乗り出した瞬間に落ちたような覚えがあるんです。そこで脊髄損傷。医者には『一生歩けない』と言われて。『なぜ? 治るでしょう』と。23歳のときです。(障害者)手帳を取った時点で自衛隊は除隊になりました。まあ、クビなんだろうな、と。ある日、夢で車いすに乗ってたんです。そのときに自分の深層心理が見えた気がして。体では受け入れても、心まで障がい者になっちゃったのかな、と。でも、そこからです。とりあえず生きてはいるし、落ち込んでる場合ではないと」
佐藤さんの指に結婚指輪が光る。現在はクラウドサービス部部長兼アウトソーシング部アウトソースチームリーダー。障がい者4人、健常者2人を率いる
「ここの正社員になったのは元年の7月です。通信員時代のコンピューターの知識が幸いして、システム開発、保守の業務畑を歩いてきました。けがをしてからも個人的に知識を高め、チームのリーダーを任されるようになっていきました。僕自身、新しもの好き。新しいツールはどんどん使ってみようと。楽しく仕事してきましたよ。障がい者社員の中では、役職的には一番上なので、見本を見せていきたいと思っています」
1997年に職場結婚。当初、先方の両親には反対されたという。
「当時は障がい者に対する社会的な認知度も低くて、はじめは(先方の両親に)反対されまして。悶々としながら日が経つなかで、半ば飛び出すような感じで僕のところに彼女が来て、それから『どうかひとつ……』と。一生懸命説得しましたよね。長男ができてからは、先方の両親にも頼らせていただきました。今、15歳。もうすぐ高校受験です」
「僕にとっての平成は激動です。けがから社会復帰できて、上を目指して30年間ひたすら突っ走ってきた。ちょうど今朝、朝礼で話したんですよ。『障がい年齢33歳や。まだまだ、これから』と。中途障がいの人って、誕生日が二つあると言ったりするんです。普通に生まれた日と、障がいを持った日。けがした当時、『60まで生きれるかな』って言われたんです。30年前は、器具の性能とか医療もまだ進化してなかったので。だんだん(60歳が)近づいてきて、おいおい、近いぞ、みたいな感じではあるんですけど、もうちょっと生かしていただいて、知識と経験を生かして、役割を見つけていきたいです」
(文・撮影:吉田直人)
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以前当ブログで紹介した三菱商事太陽にお勤めの佐藤さんの記事です。
【参考記事】果たして障害者の未来は明るいのか!?(11)障害者雇用のパイオニア三菱商事太陽
佐藤さんからすれば私はまだ8歳。小学生の低学年です。まだまだ学び始めたばかりです。
それじゃ~また