遠山慶子さんピアノ モーツァルト P協奏曲第9番第1楽章 C・ゼッキ指揮群響 [映画・音楽・美術]
友人と知人との間を行ったり来たり [障害者として生きる]
皆さんも脳卒中となって、気持ちが通じなくなる友人もいるとおもいます。これまで友人として信頼してきたけれど、見舞いの言葉などが心に響いてこない。
友人とは、心の内を遠慮なく話せる人であり、 その人に対して基本的に尊敬の念を持っている様に思います。だから苦しい心の内を明かすのだと思うのです。これに対して 知人とは、比較的 仲の良い知り合いといった関係で、特に尊敬の念をいだいている訳ではなく、本心を打ち明けたりはしません。
ところで、同一人物であっても、 友人の時期もあり、知人の時期もある。友人と知人の間を行ったり来たりす人がいるのです。
どうやら 置かれている状況や年齢などによって、変わるようです。 相手の置かれた状況や立場、心情がよく理解できる時期もありますし 、話していてどうもズレがあると感じてしまう時期もあります。
私はそれでいいのだと思っています。 ちょっとズレを感じた場合、 友人なのに何もわかってくれない冷たいと憤慨するのではなく「今日から友人から知人へ変更!」と心の中で宣言し、付き合いの距離を置くようにする。
私の高校時代から知り合いに N 君がいます。 高校の時は同じ運動クラブでしたから、毎日顔を合わせ親密なつきあいだったと思います。その後 同じ大学に進学したのでですが、N君は、美術関係のサークルに入って、アルバイトで忙しい私と、 全く生活がが違ってしまいました。学内で、年に数度しか顔を合わせない、知人の関係です。卒業後も十数年間は全く連絡も取り合わないようにな関係になっていました。
私が、50代の半ば脳卒中で倒れた時、偶然これを知った彼は、夫婦で京都から岡山の病院に駆けつけてくれ、いろんな便宜を図ってくました。 この時のから、関係は非常に近くなり、家族ぐるみの友人づきあいになっていきました。
こんなふうにN君との関係は、時期により親密さが変わっていきました。元々そんなに気が合うと感じでないのですが、長い付き合いとなってきました。
話が合わないからと、関係を断つのではなく、知人として付き合ってきたことで、変化がうまれました。
皆さんも脳卒中となって気持ちが通じなくなる友人もいるとおもいますが、嘆くのではなくとりあえず友人グループから知人グループに移籍させておきましょう。
大ゲンカなどで、関係が壊れて居なければ、何かのきっかけで、また友人関係に戻ることもあります。
それじゃ~また
知識偏重の時代、脳卒中のリハビリはどうなっていくのでしょうか(1)
今の時代は、ネットで様々なことが簡単に調べられることから、みんな物知り顏で賢そう。いわば「知識偏重の時代」です。
ベストセラー「思考の整理学」で著名な外山滋比古氏は、「知識を偏重すると、思考力が落ちる」とたびたび指摘されます。
つまり普段の問題解決のすべてを自分の頭で考えないで、ネットで調べることで済ませるから、思考力の訓練ができないということです。この自覚がないので、ネットで知識を得ただけで、自分を賢いと勘違いする。
ネットで調べれば解決策に行きつく場合はいいのですが、全てはそう上手くいきません。特に人の身体は未知なことが多い。ネットの「知恵袋」でも解決されない。
こんな状況の中で、脳卒中後遺障害のリハビリはこれからどうなっていくのでしょうか!?そんな疑問が浮かんでくるのです。
この病気は、損傷箇所も程度も人それぞれ、後遺症は十人十色です。お手本があるようでないのです。万人に効果のあるリハビリ法は確立されていません。
リハビリ施設のセラピストは、患者に対して、学校で学んだ知識の優位性があります。筋肉や関節の名称など一生懸命記憶されたと思います。ですからその優位性に頼ろうとします。「一般論的知識」偏重のリハビリです。
ですから、患者それぞれの状態に応じた個別のリハビリの提案が出来ない。アイデアが出ないのです。
現場(患者)をじっくり観察し、個々に応じた改善のアイデアを出して、それを試す。そして上手くいけば、職場で評価され、同僚に知恵が共有される。
そんな経験が少ないから、仕事の楽しさもやる気も奪われてしまっているように思います。そして、実際やる気のない口先だけの先輩も職場に多くいるのでしょう。
私が何度かリハビリ入院した病院も、若いセラピストで熱意が感じられない人が多くなった気がします。患者を車椅子に座らせて、若いセラピスト同士がお喋りしている。
次回は、私なりの解決策を提案したいと思います。
それじゃ~続きはまた